㉘真鍋蟻十の句碑

●芦辺町国分本村触1361‐1(郷ノ浦港から国道382号線を勝本方面へ。住吉の交差点を右折。県道174号線に入り、国片主神社の左奥)

●建立年月日 1979年10月

●建立者  有志

名に古りし

国府の

跡や

鶴渡る

         蟻十

裏面には

真鍋儀十氏は明治二十四年箱崎村諸津に

生まれ長崎師範を経て明治大学に学び普通選挙 動に活躍し衆議院議員として二十年間□  り国政に尽され勲二等旭日重光章を授与され 戦前より高浜虚子の門に入り蟻十と□ホトトギス同人となる。

また雪州会長として壱岐人の中心的存在であり此の間壱岐島の為尽された功績は極めて大である。

ここに同氏の米寿を記念して句碑を建立する。

 昭和五十四年十月

                      発起人一同

この句は、「国府があったと思われる歴史的な場所で、時は移ろい、鶴が渡っていく」

除幕式には縁故者として真鍋陽光氏が曳綱を行った。

当時の除幕式の写真

〈碑の付近の見どころ〉

●壱岐国分寺跡(県史跡)

701年大宝律令が作られ、国司、郡司、里長が任命された。国司は上流階級に属す者から任命されるのが原則で、その任期は6年から4年になった。壱岐は下国で、守(かみ・政務の統轄)と目(さかん・上申の取次)、史生(しせい・書記や雑務)がおかれた。

国司は国衙(こくが・役所)で国を統括した。国衙の所在地を国府といった。国司が常駐し、国内統治や中央政府との連絡にあたった。国分寺や総社、城なども、国府の近くに設けられることが多かった。壱岐ははっきりとわかっていない。741年の「国分寺建立の詔」を受けて、壱岐直の氏の寺を壱岐国分寺に改称した記録が残っている。平城宮遷都時に用いられた軒丸瓦が壱岐国分寺に使用されていたことから、中央政権と強い結びつきがあったとされる。

壱岐国分寺跡