※雪連宅満 (ゆきのむらじじゃかまろ)
●場所 石田町本村触1-1(石田港から筒城浜方面へ。左手に万葉公園の看板あり)
●建立年月日 1969年10月8日
●建立者 石田町
壱岐の島に到りて、雪連宅満の
惣(にわか)に鬼病(えやみ)に厭ひて死去(みまか)りし時に
作れる歌一首 短歌を併せたり
石田野に
宿りする
きみ
家人の
いづらとわれを
問はば
いかに言はむ
木俣 修 書
万葉公園は石田村の時に、志自岐、天満両社の共有で黒木城のあっ跡地。1969年10月、明治100年を記念して整備された。歌碑の石材は、石田産の玄武岩、宅満をとむらった歌三首のうちの一つ。
(万葉集巻15―3689)
736年新羅への使節団「遣新羅使」の一人
だった雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が新羅
へ向かう途中病死。町内に埋葬されたとされる。
筆者の木俣修氏は、もと昭和女子大の教授で、
東京に在していた。白秋に師事し学者肌の歌人
で、宮中歌会選者であった。壱岐出身で在京の詩
人松坂直美の協力によって入手したもの。
漢の武帝を祖とする高麗、新羅、任那の四国が、半島に国をおこしたのは紀元600年代の初めの頃とされている。南韓の大部分を占めていた新羅と任那は我が国に一番近いいちにあり、密接な関係があった。
百済と任那は、我が国とは同盟的性格の間柄であった。新羅使節の来朝が38回、我が国の派遣が27回。第垂仁天皇の登極祝賀の新羅使節が来朝の途中、壱岐に立ち寄って船旅の疲れを休めた六百四十年頃と神功皇后の三韓征伐直後のしばらくの間を除いた、約千年近い長い間も両国の関係は全く葛藤の歴史のくりかえしであった。我が国が半島に進出したのは、新羅の侵寇に苦しめられた任那の救援に応じたことに発している。 仲哀天皇が 日(かしひ)の宮で亡くなられた後、神功皇后は新羅征伐の軍をおこし、新羅に向かった。一戦も交えずに降伏。高麗、任那もこれを聞き来降。欽明天皇の15年後、百済救済のため再び、新羅征伐の推古天皇の8年、任那救済のための新羅征伐がおこなわれた。日本と唐の国交関係が開かれる頃には、新羅は完全に半島の全部を領有するまでに 国威を伸ばした。我が国の近海に出没、1529年には、賊船が博多をおかし、 奪し逃亡。その後、内政上の混乱の為、1595年高麗、により滅された。
古来わが壱岐の島は、古事記によれば大八洲(おおやしま)の一つとして、伊弊諾・冊二神の産み給うた島として伊岐とあり、日本書紀には壱岐(ゆき)の洲(しま)または、島となっており、和名抄には由岐(ゆき)の島と書かれている。神族氏族の身分職業などにより姓(かばね)として連(むらじ)であった。亀卜、占部氏と後裔の壱岐氏、その流れである吉野氏。この一族がそうである。
吉野家の系譜によれば、11代雷大臣命は、神功皇后の三韓征伐に従って軍功をたて皇后凱旋ののちは、壱岐対馬にとどまって、卜術に携わっていた。36代雄貞のとき、卜部宿弥を賜い37代是雄のとき、壱岐宿弥を52代末萬のとき吉野にあらためる。その後、箱崎、勝本、布気(鯨伏)に分かれる。
遣新羅使一行の顔ぶれが決まったのは、天平6年2月。大使、副大使、半官、録事、大通事、知乗船事、船使、医師、少通事、雑使、鎌人、鎌工、卜部などの総勢約40数名、。出発の日は不明。難波の住吉の三津崎から乗船、九州をめざして瀬戸内海を西へ航した。一夜周防灘に漂ううきめをみたが、翌日順風を得て、今の中津市の東南、和間の浜(分間の浦)に着き、ここから九州路をたどった。和間の沖で風浪に遭ったときの歌、
大君の命恐(かしこ)み大船の
行きのまにまにやどりするかも
これは宅満の作。宅満は優れた歌人でもあっ
た。宅満の歌は萬葉集中ただ一首があるのみ。
当時の新羅は、半島全部を領有するまでにはな
っていなかったが、近隣三国威圧の権勢にたか
ぶり、我が国に対しても非礼無道の振る舞いを
露骨にあらわしていた時だけに、一行の前途に
は、極めて暗い陰が漂っていた。そのため使節た
ちの歌にも、勅命の奉じて勇躍任に赴くという
使命感に鼓舞されたものが少なく、故国の山河
や妻子恋人に思いを馳せた、いわゆる民族感情
をあらわしたものが多かった。そうしたなかにあっただけに、宅満のこの感懐は尊いものに思われる。
一行は前途多難な交渉に心を痛め、望郷の思いに駆られながら、苦労の旅路を重ね、やがて太宰府所管の筑紫 (今の平和台球場付近で、のちの外国使臣の接見所となった鴻臚館)にしばらく滞在、秋もやや深まったころ、韓亭、引津、神集島を経て、壱岐にむかい、印通寺の西方、今の津宮付近から上陸したものと思われる。壱岐についた一行の最大の不幸は、宅満が突然悪疫におかされなくなったことであった。天平8年から9年にかけて、全国的に疫そうが流行した。大使副使も罹患、大使は対馬で亡くなった。
一行の心にかげり続けていた思いは、宅満の死によって一層強く哀愁の情をかきたてるものであったろう。六人部連鯖麻呂(六鯖は略したもの)その他の同行の使節たちは、長短九首の挽歌(とむらいの歌)を捧げて、その霊をなぐさめている。
津の宮から400メートル、壱岐交通の八石バス停から北西約200メートルの小高い丘畑のほとりの木陰に、里人たちが唐人の墓又は官人の墓と呼ぶ大きな塚がある。宅満の墓だろうと言われている。このあたり一帯が石田野と呼ばれた界わいである。
天皇(すみろぎ)の 遠(とほ)の朝廷と 韓国に渡る
わが背は 歌人の 斎(いつ)き待たねか
正身かも 過ちしけむ 秋去らば
りまさむと たらちねの 母に申して
時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む
明日かも来むと 家人は 待ち恋うらむに
遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離(さか)りて
石(いわ)が根の 荒き島根に 宿りする君
天皇の遠い政庁の使いとして、韓国に渡るわが君は
―家の人が潔斎して待たないせいか、又は自分が何かあやまちでもおかしたのであろうかー秋になったら皈(か)えりましょうと、母上に告げてでかけ、その予定の時も、皈えるべき月も過ぎてしまったので、待ち焦がれていることだろうに、遠い韓の国にはまだ着きもせず、大和にも遠く離れて、途中岩石のごつごつとした荒涼たるこの島で永久のねむりについてしまって、もはや□えることもない君よ、ああ。
反歌二首
石田野に宿りする君家人の
いづらとわれを問はば如何に言はむ
世の中は常かくのみと別れぬる
君にやもとな吾が恋ひ行かむ
右の三首は挽歌なり
石田野の果てに、淋しくねむる君よ。家の人たちが、どこに行ったのかとたづねたら、私は何と答えたらいいのか。
世の中というものは、いつもこうしたものなのだと、別れて行った君を、わたしは唯わけもなく恋したって、今から淋しく旅を行くことであろう。
以上三首の歌は同僚の作で「読人不知」と見るのが正しい。
わたつみの 恐き道を 安くけも 無く悩み来て
今だにも 喪無く行かむと 壱岐の海人の 上手の卜部を
かた焼きて 行かむとするに 夢の如 道の空地に 別れする君
恐ろしい海の航海を、不安な思いで苦労してやって来て、せめて今からはわざわいに遭わず行きたいと思い、壱岐の卜部の名人のうらないをたよりに、遠つ国に旅立とうとしている時に、心許ない旅空で、ゆめのように別れて行かねばならぬとは!
反歌二首
昔より言ひつる言の韓国の
辛くも此処に別れするかも
新羅へか家にか帰る壱岐の島
行かむたどきも思ひかねつも
右の三首は、六鯖の作る挽歌なり。 遣新羅使一行は全く苦難の連続であった。宅満と大使を亡い、副使も罹病、新羅との外交交渉も予想通り、新羅の傲岸(ごうがん)な態度に圧されて、全くの不首尾に終わり、一行は帰らざるをえなかった。そして伊勢、住吉、八幡、香椎の四奉幣使をつかわし、新羅に無礼の状を奏告しただけで、なんら積極策には出なかった。まことに悲運の使節たちであった。 (「宅満と萬葉集」1969年山川鳴風)
万葉公園が50周年を迎えたとき、奈良県の犬養万葉記念館・犬養孝)の岡本館長や大宰府の万葉会の会員による歌語り、短歌創作コンテストが行われた。
〈碑の付近の見どころ〉
●雪連宅満の墓(石田町池田東触池田橋東方)
死去した宅満の墓は村人達に万葉集の歌に登場する石田野(いわたの)が見渡せる高台につくられた。毎月8日の夕刻に村人たちが墓前に集まり、念仏を唱える。この念仏を俗に「夕飯祈祷(ヨーメシギトウ)」と呼んだ。
●万葉公園
勝本町に生まれ、7歳の時、石田町の太陽庵良堂和尚によって、祝髪し宗熊となずけられた黙雷禅師の頌徳碑が建立されている。京都建仁寺の菅庁を77歳で死去するまで勤めた高僧で大老師といわれた。
春には桜が咲き地元市民の花見場所となる。
●碧雲荘 (へきうんそう) 石田町石田西触
印通寺港が眼下に見える。朝鮮に渡り大規模農場経営者として財を成した地元出身の資産家・熊本利平が、終戦前の1941年に建てた住宅。学校への多額の寄付、印通寺防波堤の築造など郷土の発展に貢献した。
●花雲亭
碧雲荘の敷地内に1942年、元帥大勲位久邇宮邦彦王妃俔子殿下が東京渋谷区に新殿を造営されるおり、男爵益田氏に茶席の経始をたくした。益田氏は、水無瀬宮「燈心亭」を模して、草庵式静寂と書院式荘厳さをもった貴族的風格のお茶席「花雲亭」を完成させた。10年後熊本利平に下賜され移築した。
●竹田黙雷禅師の頌聴碑
香椎村(勝本町)に生まれ、7歳の時、石田町の太陽庵良堂和尚により祝髪し宗熊と名付けた。その後77歳で死去するまで、僧籍にありその間40年間、京都の建仁寺の菅庁を勤めた高僧で大老師といわれた。
●松永安左エ門(明治12月1日~昭和46年6月16日)記念館
電力王と呼ばれた。慶応義塾大学で福沢諭吉の教えを受け、1910年、九州電気設立。入口には、福博電気軌道(のちの西鉄)の懐かしい電車が置かれている。館内には、後藤新平や犬養毅首相からの書などが展示されている。