㉕服部顕道の碑

●場所 芦辺町深江栄触546(郷ノ浦港から郷ノ浦トンネルを抜け6キロ先を右折。1.6キロ左手前方向に曲がり県道23号へ。すぐ右折。藤江商店隣奥)

●建立年月日 1977年2月

●建立者   旧制中学・壱岐高女同窓生

五畝田園百巻書

晴畊雨讀往林

一年三十六旬日

雪月風化興余餘

昭和五十二年二月吉日

   月譚顕道書


この碑は碧岩録(へきがんろく)百則を

偈(げ)にされし服部顕道師

の禪(ぜん)徳を表すもの也

裏面には

旧制中学

壱岐高女 同窓生有志建立 

建設委員

委員長 平山光美

委員   斎藤東一郎

      江田武義

      横山芳 

      秋吉  量

会計   坂口友四郎

   監事   幡鉾  次男

五畝の田園と百巻の書

晴耕雨読林閭に住す(閭はすまいのこと)

一年三十六旬日

雪月花風余り有り

(訳)

五畝の田園と百巻の書は身を養い心を修る

糧である。晴天には耕し雨天には書を読み

五十年の歳月を安国寺で過ごした。一年三

百六十日、四季おりおりの雪、月、花を唯一

つの伴侶として、書を読んで祖師に憧れ、詩

を吟じ毎日が興味津々の禅生活である。

 

この碑は安国寺の門の手前に建立されている。 顕道宗正(1892年11月10日~1980年12月8日88歳没)は安国寺の二十六世。佐賀県三養基郡北茂安町の農家服部才吉の三男に生まれる。15歳のとき25世の 崖和尚の弟子となり得度する。久留米梅林寺俤髪、安国寺で寺務に精励していたが、勉学のため上洛を決意、途中旅費に困り、寺で働き京都へ、紫野般若林を卒業。そして東洋大学に入学するが、入学式の所持金は十三銭だったと漢詩が残っている。内川寮の炊事夫をしながら授業料を支払っている。学業半ばに召集され、久留米四十八 隊へ入隊し青島戦に参加、三年余りの兵役生活をする。「金 勲章はもらえなかったが、下賜金で大学は卒業できた誨。」と喜んでいた。

大正7年(1918)東洋大学を卒業し、梅林寺専門道場に掛錫し修行を積み、同8年安国寺お和尚となる。在任中は、位牌堂の新築、宝財殿の新築など行い、私財で書院も作り安国寺に寄贈した。また、大徳寺派の宗会議員なども歴任した。かつ、大正9年より昭和21年3月まで旧制対馬中学、壱岐中学、など在籍のまま、長崎県下中学、女学校に23年間勤務していた。昭和19年10月から終戦まで壱岐女学校動員学徒の引率の教師として大村、川棚と壱岐を往復した。「わかりやすい講義」が当時の教え子印象。問題のある生徒を寺に呼び、掃除や炊事寝食をともにしながら善導した話しも残っている。

  中学校五校勤務

奉職五黌相共親 随能応性諄々    

職を五黌に奉じ相共に親しむ

育英二十有余年 中女三千五百人    

能に随い性に応じ誨えて醇々

*醇々―わかるように言いきかせるさま 大学で漢文を専攻した師は、「月潭」と号し、漢詩を作ることに生きがいを感じ努力する。和歌山県富田町の高橋宗雄誌に師事し40年黒潮集に毎月詩を送った。また、寝屋川市の水本清師より、書道の指導を30年受ける。

安国寺歴代祖師の研究や寺宝の在庫の調査をし、書籍を出版した。

「老松山安国寺海印禅寺史」(昭和35年)を編纂する。序文には「安国寺史の編纂は年来の宿望であった。旅行するたびに至る処でその材料を探していた。今年は開山の六百年に相当する。・・折りも折り、老体に異常が感じられた。若し、死ぬとすれば此れだけは完了しておかなけ頌れば、材料が空しく散逸するおそれがある。そこで病いのひまひまに着手した。材料が乏しい、その上に、図書館もない。持合せの古文書や書籍だでけではどうにもならぬ。それで京都の南禅寺、大徳寺、興国寺、幻住庵と関係寺院に材料を依頼すると同時にいろいろと意見を聞き合わせた。各方面ともご協力下さって漸く御粗末ながら出来た。・・・六百年の大遠忌も天の時と人の和を得て盛大に行われて、最早私が一生涯に思い残すことはないことになった。只、十方の諸施主に感謝するのみである。また本著のために懇切なご指導とご協力をいただいた山口麻太郎先生、福田茂樹先生、壱岐日報社長篠崎健二郎氏に深甚の謝意を表する。

    昭和三十四年春 安国寺絶学軒にて誌す」

 

「碧巌録頌」(昭和50年)禅門第一難解の書。一語一語ふり仮名をつけ解説されている。  師は酒を飲まず、煙草を吸わず、食い過ぎず、遊びに凝らず、上段に走らず、先走った事を好まず、の六不を厳しく守った。融通の利かぬ真面目一途の禅宗である。    「深江物語」山口定徳



●安国寺      

1339年に足利尊氏と弟直義は平和祈願と元寇以来の戦死者を弔うため、全国66か国と2島に安国寺建立を命じた。従来からあった「海印寺」を「安国寺」と改称した。開山は京都南禅寺の無隠元 禅師と云われている。「師子窟」の扁額が掛けられた仏殿は、二重屋根の重厚な建築物。匠の技を発揮し、釘を使用していない。室町時代の貴重な什物が多く、「高麗版大般若経」国重要文化財になっている。鎮信の嫡子久信と妻のメンシアの拝塔がある。境内には、樹齢600年を超える「大杉」が見られる。

松浦久信とメンシア夫人の拝塔

〈付近の観光地》

●原の辻遺跡(国の特別遺跡)

「魏志倭人伝」に記された「一支国」の王都に特定された遺跡。紀元前22~3世紀から紀元3~4世紀(弥生時代~古墳時代初め)にかけて形成されたあ大規模な多重環濠集落。東西、南北ともに約1㎞四方に広がっている。ムンクの絵のような形をした人面石が話題となった。

●一支国博物館

壱岐の歴史を通史的に学習できる総合的な博物館。島全体に歴史が残る「しまごと博物館」の拠点。黒川紀章の設計。