●場所 新城西触590金蔵寺境内(郷ノ浦港から国道382号線を勝本方面へ。壱岐カントリークラブを過ぎて、GSの交差点を右折、壱岐商高校方面へ。勝本ダムの標識を左折)
●建立年月日 1980年5月4日
●建立者 服部顕道 牟田山 篠崎正稔 山口勝
わだなかに
山脈ひくき
壱岐の島
わが垂乳根の
眠りしつけし
紫野宗碩
裏面には由来記が書かれているが、読み取れない箇所がある。
小国宗碩先生は明治□一年一月廿二日山口県判事小国武宏を父・平田イネを母として出生新城の祖父平田虎造の許で生育され生女の遺言従い八歳の時東光寺に出家し十歳から二十三歳まで十三年間平戸の正□寺にて修業する。大正九年大本山大徳寺に入山蛍雪十年、昭和五年 三十□歳にして京都紫野の来光寺住職となる。昭和八年福森葉子と結婚福森姓となる。大正七年アララギ派斎藤茂吉の□弟子となり昭和四十四年歌集「□安集」を上梓され□五十四年第一歌集「白馬芦花に入る」と葉子夫人の□□と併せて鴛鴦集として出版され超えて尚□□として精進されつつあり□より一首「壱岐の島に□首下る時海の□と□散□とぶ鷗□を添へん
昭和五十五年五月四日
服部顕道 牟田 山
篠崎正捻 山口 勝
歌にある「わだなか」は、海の中、海上の意。「海に浮かぶ山のなだらかな壱岐の島は、我が母のように優しく私を寝かしつけてくれる」
山口勝の発企で、勝本町新城の神岳山(通称かみだけさん)金城寺本堂横に建立される。
大正7年斎藤茂吉に入門し短歌の指導をうける。
山口勝は郷ノ浦町の出身。目良亀久の「耕人」などに参加
花咲ける草はやさしも十歩あまり歩きて仰ぐ昼の灯台 牟田山は郷ノ浦出身。斎藤茂吉に入門師事した。
天さかるわだつみの沖の壱岐島にかすかに吾のありと思えや
篠崎正稔は芦辺町出身。アララギ派の松嶋弘の指導を受ける。1980年長崎県文芸大会において「議会議長賞」に輝いた。
この家に住む人絶えて蔓のはびこる中に澄 めり汲井戸
金蔵寺は真言宗智積院の寺院。かつて山伏が修行していた。
山口県から来た、中原慈本という(弘法大師の信者)人が廃寺となっていた神岳山を復興した。壱岐島四国八十八か所霊場を創設した。(男の厄年42歳、女の厄年33歳、子どもから大人になる13歳を足したものを八十八という。) その中心となっているお寺が金蔵寺。終点は能満寺。2017年に雨災害で倒壊し、2年後に、再建した。文化財の銅造如来型坐像、鰐口(室町時代前期)や鐘楼などは無事だった。

金蔵寺

滋本行者