⑨鶴田瑞穂の歌碑(墓碑)

●場所 郷ノ浦町渡良浦1185―4駐在所近く(郷ノ浦港から左折、郷ノ浦トンネルを抜け左折、県道175号線に入る。道なりに約4キロ。駐在所の横の道のすぐ右に入ったところ)

●建立年月日 2001年5月

●建立者    鶴田 眞右

椎の木を

覆ひつくせし

葛の葉の

葉裏返して

吹く青嵐

          瑞穂

この歌は1997年に発行された「やまなみ」(678号)の巻頭詠として掲載された。

娘の絹子さんは、「父は歌集を出さなかったこともあり、頑張ってきたのでお墓に戒名の代わりに歌を刻んだ。」と話す。

初夏、大きな椎の木を覆いつくすほどの葛の葉を、強い風が吹いて裏返していると歌う。すぐ近くに渡良の港があり、海風が吹いていたのでしょうか。

鶴田瑞穂(大正7年8月1日~平成13年1月83歳で亡くなる)は本名丈夫(ますらお)。歌人で「やまなみ」(九州の短歌会)に属す。

芦辺町諸吉の生まれ。24歳で藤島家から渡良の鶴田家に婿養子となる。長崎師範学校を出て教師となるが、教育事務所などで戦後の教育活動に務めた。1966年に短歌誌「荒土」の復刊の際編集者として尽くす。

郷ノ浦文化協会の設立時は機関誌「烽火」の編集長となる。「やまなみ短歌会」は文化協会の結成と同時に発足。当初は「郷ノ浦短歌会」と称した。

短歌サークルで講師を勤めていた(教育委員会より)。当時の会員は、指導のひまひまに各会員の作歌の動機、素材の選択、作品に対する感想や意見の交流を談笑のうちに行い、和気あいあい、時間のたつのも忘れるぐらい楽しい短歌を続けてきた。鶴田から創作のいろはから教えてもらったと書いている。1980年「合同自選歌集珊瑚珠」(郷ノ浦中央公民館短歌サークル)が発行される。  まえがきには、「上手、下手よりもその人の『感性』や『抒情』を大切にして、おもしろさを会得し、『社会生活の活力』の源泉である『自己を支える力』をきたえ、『生活の核』、『自己の座標』を確立することに重きをおき、地方文化浮揚の一助になりたいと考えてきました。」あとがきには、「短歌は、人間の内面的なはたらきを、ひとつの定型によって形象化し首にまとめたものですから、出来上がった歌は作者の人間以上のものでも以下のものでもありません。秀歌を生むためには、それなりにその人の内面生活の向上が必須の条件になります。あそびで作った歌はあそびの歌でしかなく大した価値はないと思います。」と書いています。

「父の思い出の音はガリ版すりの音。一生懸命に配る印刷物を刷っていた。」と娘さんが話す。  

鶴田は本が大好きで、郷ノ浦の松屋書房から名前があがるほど購入していた。身長が176㎝でスポーツ、油絵、ピアノなどいろいろなことに挑戦した。ピアノは人が使ってないときに借りて弾いていた。また、『古今和歌集』や『万葉集』が好きだった。

壱岐日々新聞に掲載された歌

浜木綿の花静まりて照る月のさやけき夜をい寝(ね)惜しみけり

「もし古今集の中にこの歌がまぎれ込んでいてもなんの違和感も感じないのではと思う。格調高くみずみずしい。『壱岐島歌壇の系譜とその作品』など評論の一人者でもあった。」と書かれている。

兄の藤島武清はアララギ派で教育長のころは芦辺町で俳句や短歌をたしなむ。

鶴田の短歌

 多く旅の歌 

  地の底にこもる生命の自証とも阿蘇中岳は煙噴きあぐ

  東京の乾ける夜の空に出づる月は貼絵のごとくみゆるも

  ― 有限無限 ―

  何代も譲られて来し公印を清めて明日の引継ぎ待てり

  職やめてゆかねばならぬ勤めなどなくなりし朝を茫然とをり

  老いづきて見る寂しさのひとつなり夕日は燃えて今海原に落つ

  氷片とグラスが触れて軽く鳴る音色愛しみ子らと酒酌む

1987年発行の珊瑚珠には

「俵 万智氏の歌の考察

―新しい短歌の担い手―」と題して掲載している。その中で、「軽い歌い口の中にもやはり何かがなければなりません。単なる風俗を詠んだり、駄洒落やコマーシャルめいたものでは、短歌の新しさにはなりえないという人もいます。いのちに触れるものがなければ「軽口」の歌、「通俗的な興味」と言われます。面白い歌が流行していますが果たしてそれでよいのでしょうか。今日では言葉の状況がどんどんうごいていることは事実です。短歌の場合は伝統的なものががっちりしていて、その動く部分と動かない伝統的の部分の二面をどうからませていくかが大切となるでしょう。風俗を沈め、自己への問いかけが歌の背後にみえる。そういう自覚をもった歌人の作品が真の意味での新しさを備えるでしょう。短歌の場合、根の部分にある伝統とのせめぎあいの中から新しいものが生まれてくるのではないかと思います。」