●場所 郷ノ浦町新田触870‐3(郷ノ浦港から左折、郷ノ浦トンネルを抜け左折、県道175号線に入り、1・2キロを右折。左折して県道59号線へ。5キロで左折。1・2キロで右折、右折し1キロ)
●建立年月日 不詳
●建立者 幡掛正浩
天巧の
たわれお(を)かしと
あかずみる
壱岐猿岩の
夏姿かも
正浩
天巧は、自然の力でできた見事なものという意味で、「猿岩を滑稽でおもしろくいつまでも眺められるなあ」と、詠んだと解釈した。
元伊勢神宮の小宮司の幡掛正浩氏(はたかけせいこう・1914~2006)が来島時に見た猿岩の素晴らしさを詠んだもの。観光客に猿岩の魅力を再認識してもらうために駐車場の一角に建てられた。92歳で亡くなる1年前の2005年5月に詠まれいる。2度来島し、教え子の島内の三人の神職が接待。
北九州出身。伊勢神宮の第61回式年遷宮の準備を終えて、御遷宮の本祭典を前に、後進に道を譲り、自ら学事顧問に就任する。元神宮教学研究室長。著書「神国の道理」「冰雪よりもきびし 美しいこととかなしいこと」。息女の節子さんは「父は地位や身分を求めた人ではなかった。西郷南洲遺訓の命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、しまつに困る也。このしまつに困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業はなし得られぬなり。・・を地でいく人でした。」と言っている。長男は元(株)クボタ社長。
岡山県の吉備津神社(日本建築で有名な吉備津造りの勇壮な社殿で桃太郎のモデルとして親しまれている)には、四国石鎚山に連なる青滝山からの安山岩に、上杉家の知将だった直江兼続の漢詩を信条にしている幡掛氏が書いた石碑が、大教殿広場に建っている。
春雁似予 予雁似 洛陽城裏 背花帰 兼続が京の都を離れて忠義のために北陸の上杉家に帰って行く心境を詠んだもの。天皇陛下の御詔勅にもかかわらず戦後、家代々の福岡県の神社に帰郷したときの心境などを漢詩に託したとされる。世の中の捨て石になることこそ、人の道とした。
黒崎半島の先端にある猿岩は高さ45メートルの海蝕崖の玄武岩。「壱岐の国は生き島である。神さまが海の中でこの島お産みになったとき、海中に流されてしまわないようにと八本の柱を立てて繋いだ。その柱は折れ残り、今も岩となって折柱といわれている。」という話が残っています。その八本の柱のひとつが猿岩の海蝕崖と云われている。観光客もたくさん来ているが、この碑に気付いてもらいたい。

奥に猿岩が見える