⑥松坂直美の歌碑

●場所 郷ノ浦町片原触字岳の辻932

●建立年月日 1977年4月18日

●建立者    壱岐ロータリークラブ外有志

玄海ワルツ

       松坂直美

雨か涙かしぶきに濡れて

誰を待つやら島椿

鷗が啼いてる夕日の海に

吹くな汐路の別れ風

玄海ワルツは 思い出ワルツ

銀のすすきの弁天崎を

博多通いの船が行く

二人であるいた清石のなぎさ

忘れられない錦浜

玄海ワルツは 思い出ワルツ

なびく湯の香に椿の花が

燃えて今年もまた咲いた

なんでもないのに何故あの人が

忘れられなくなったやら

玄海ワルツは 思い出ワルツ

郷ノ浦町の岳の辻に建立。1991年勲四等に叙せられる。並びに米寿を記念しての建立となる。

故郷である壱岐の歌をたくさん作詞している。

島の風景や人々に想いを馳せながら詞を作っていたのだろう。昔の切ない思い出も詞に書かれているのかもしれない。

松坂直美は戦前から戦後にかけて活躍した作詞家。1910年福岡県で出生。小学3年の時父親が亡くなり、父の実家の芦辺町深江鶴亀触に来る。旧制壱岐中学校で「草の実」を主宰した。同地で青年期を送る。中学1年の時のことを書いている。「橋本春生が教師として赴任、石川啄木の歌集『一握の砂』を講義し、啄木のとりこになった。詩を書くようになったのは山口孝男と親しく往来するようになってからで、小田拓林などの影響でもあった。私が卒業して1年ぐらい家業の農事を手伝ったころで、詩集を一番読んだり、投書したりしたころでもある。」(壱岐高校七十年史より抜粋。橋本春夫は石田町の筒城浜にある歌碑の歌人でもある。) 中学卒業後、1931年に上京して語学を学び、出版社の訳詩で生活する。「文芸」「楽園」「若草」などに投稿し、木下夕爾・木下潤と「冬魚」・「牧笛」などの同人誌に参加、西城八十主宰の「蝋人形」に「貧しい花束」などが採用される。

1932年に流行歌「山のあけくれ」「時雨する頃」の作詞をてがけ、古関裕而の作曲でレコードデビュー。舟木一夫や美空ひばり、田端義夫など多くの歌手に作詞を提供したこともある。

1941年10月から1947年6月までサイゴン・シンガポールで兵隊生活を送る。

日本詩人連盟会長、日本訳詩家協会理事長、雪州会(在京壱岐人会)会長など務めた。戦後の混乱の中、東京の大田区に自宅を建て、92歳で亡くなるまで過ごした。

本市市内の小学・中学校(三島小、沼津小、芦辺小、田川小、那賀中、田川中など)の校歌を作詞する。主な作品は戦後の混乱を明るく照らした歌謡曲「緑の牧場」近江俊郎、「ふるさとはネムの花咲く」「楽しい日曜日」美空ひばり、「石狩の春」「芦辺町歌」「郷ノ浦町歌」「勝本小唄」など2000余曲の作詞をした。2002年にった。13回忌にあたる2015年に、古賀政男音楽博物館の「大衆音楽の殿堂」に顕彰された。著書には「わが人生は闘争なりー松永安左エ門の世界―」がある。2015年に八丈島に住む長女の岡野みち子さん(八丈島在住)が、映画「昭和の歌人・松坂直美の生涯」の試写会上映のため監督の村上安弘さんとともに来島している。松坂直美が亡くなる3年前に書かれた詞は故郷への思いが綴られている

「帰ろうかな ふるさとへ」

ふるさとの山が 呼んでいる

ふるさとの川が 呼んでいる

帰ろかな 帰ろうよ

想い出楽し ふるさとへ

ふるさとの海が 呼んでいる

ふるさとの島が 呼んでいる

帰りたい 帰りたい

まぶたに浮ぶ ふるさとへ