②平田のぼるの石碑

●場所 郷ノ浦町片原触1558(郷ノ浦港から郷ノ浦大橋を渡って右折し、すぐ右側が弁天荘の入口。)         

●建立月日  2008年1月

●建立者   壱岐川柳会

海の声が

君に聞こえる

筈がない

       のぼる

裏面には略歴 大正十年十一月十三日 釜山にて出生

昭和二十四年壱岐川柳会創設

昭和二十五年ふあうすと川柳社同人

昭和五十年ふあうすと賞受賞

平成十二年四月ふあうすと社永年功労者表彰

平成十四年八月十三日

永眠 享年八十一歳

   平成十五年四月

   ふあうすと特別功労賞受賞

             平成二十年一月吉日

                  壱岐川柳会  建立

平田のぼるは川柳作家。碑は自筆で川柳会会員で書家でもある市山天涯子がデザインした。平田の経営する弁天荘(旅館)の立派な腕木門(うでぎもん)の横に壱岐川柳会が建立。

きれいに磨かれた自然石にこの詩が刻まれている。趣きのある弁天荘の雰囲気に合っていて、最初にこの碑を見た(発見した)時は、散文なのだろうか意味するところがわからなかったが、弁天荘の主に伺い納得した。

句は島暮らしをした中で島人のきびしい生活を詠んでいる。生まれ育った土地ではないが、移りすんだ人が感じるものもあるのだろう。この島で暮らしていくという気持ちも含んでいるのではないだろうか。

釜山より博多に引き揚げてから、実父の家業紙問屋を手伝う。大学を出たころより川柳に触れる。福岡の「川柳街道社」(1947~52)、「福岡ふあうすと」(泉淳夫は創始者の一人)同人で新聞やラジオで作品をよく発表していた。博多より1949年壱岐の平田旅館に婿入り。

みなと川柳会(勝本町)も始まる。1951年新壱岐新聞柳壇を設ける。

熊本勝人は壱岐に引き揚げて、平田とともに壱岐の新川柳運動に尽くした。両氏は同好者の集まりを催したり、新聞や雑誌に作品の発表をして、壱岐の川柳は両氏により堅実に根をおろした。その後、熊本は埼玉に行く。5月には雑誌「壱岐川柳」を発刊した。8月に壱岐納涼川柳大会を開催し神戸や福岡から川柳の大家が来島。郷ノ浦では武生水町公民館長の山口麻太郎のすすめで公民館川柳が開講、草(館長)、目良銀鱈舞(新壱岐先代)、目良正覚坊(亀久)も参加。翌年郷ノ浦本町青年川柳会が発足し、十一月には勝本の学校川柳会が初句会をもち句報を続刊。1980年に郷ノ浦文化協会の設立準備委員となる。翌年設立。平田は1987年からふあうすと賞の選考委員を担当する。谷口岩子、長谷川好子、などふあうすと賞を受賞。

2002年8月13日急逝する。

平田は「辺境と見られている壱岐であっても、その努力と精励によって中央誌へ挑戦を続ければ、いつかは最高の栄誉である道が開くことが実績として証明されてきたし、また全国の投句者から選ばれる「紋太賞」の有力候補の方もおられるし、更にふあうすとを受賞する可能性が多分にあるものと確信したい、といっている。

家族は「父はお酒をよく吞む人でした。弁天荘を買い、しばらくは平田旅館と往来し、今でいうウエルカムドリンクの抹茶を点てたり、民舞を見せたりして島の観光に一役かいみなさんからほめれていましたね。私も、神戸に汽車で連れていかれました。」趣味でお酒にまつわるおちょこや、おもしろそうなものが弁天荘に飾られている。   「のぼる師は先生と呼ばれるのを好まれず、みんな『のぼるさん』と呼んでいた。会長ではなく世話人と自称。弟子たちは、のぼるさんの人柄と手ほどきを受ける川柳にのめり込んでいった。心から酒を愛し、飲むとやや饒舌になり、鼻をさする癖がでた。」(ふあうすと1000号のあゆみ・藤本健人)

休肝日はおのれが決めることである

「昭和43年1月、私は泉淳夫氏に連れられて、壱岐の島の小高い丘の頂上で初めて平田のぼる氏と対面した。瘦身で眼に光のある小柄な作家で、饒舌を嫌う人にみえた。」(新思潮・片柳哲郎)

遺句集「川柳 海の声」の中から

島に来た当時の句

  友遠し海に涯ある限り恋う

人と逢ううつむく性はむかしより

島くらく寒しいずこも早う寝る

島の視野ただあたたかい海がある

流れ星になりたいという父を背負いて

 新壱岐新聞に敬老の日にちなみ、寄稿している。「川柳のユーモアもまた長生きの一法です味のある顔といえばやはり年寄に多いようです。俳優の二枚目よりも遙かに立派な顔を年寄の枯れた美しさにいくらも見つけることができます。川柳に年齢はありません。ただ川柳につながる愛情があるばかり。としよりの日の年寄が子供じみのぼる」

句集『鬼ヶ島』(壱岐には昔鬼がすんでいたという伝説からか)を発行。句宴を開き、島外からもたくさん参加している。「全国柳会の動向から摂取するものに貪欲さと努力を惜しまなかった。そうした交わりと積極性の中に闘魂たくましい平田のぼる氏等が一党の柳人の句風をかきたててきた。そして壱岐独特の川柳圏を築いた。」(房川素生)

 泉淳夫は1953年出版の句集「波紋」を想い、「同人の心に、大陸文化を吸収し、高貴流人の哀しみを受け止めた、祖先からの伝統があるからであろう」と言っている。

時化の漁夫群れ放蕩のまちとなる   

弁天荘は1936年ごろに建てられ、当時は皇室の方が宿泊され、又、魯山人や横山大観などが逗留したという。絵画も残る。

 先代おかみの平田ます恵の句が「波紋」(1953年)に入っている。

日めくりに廂(ひさし)が出来て十二月

割烹着ぬぐ日もなくて年を越し

  「ふあうすと」は、全国規模の川柳同人会。椙元紋太(初代の代表)は、「句は我等に於ける空気の様なものである。平気で呼吸し、剰すところなく吾人に恵む。日々月々吾人と離れぬ存在である。僕らはただ僕らの姿ありのままを表現し思うままを示すことに努力しさえすればよい。人間の魂、そのものがふあうすとに現れるのである」という。 平田はふあうすととともに生きてきて、壱岐の島人も仲間に入れようとして、それが実現していった。今も島は不自由さがあるが、昔はもっともっとそれを感じたのではないだろうか。寂しさや貧しさなど。旅人がここにきて詠む句は、この島で暮らしている人が詠む句とは違う。 

平田は島に暮らす人々や自分の生きざまを川柳により表現し続けてきた。そして島に川柳を広めたことは人望もあり、この島の人々に強い影響を残したのではないか。島以外にも、たくさんの川柳仲間が全国から島来し、交流を深め、島の人達もふあうすと誌に載った。それは平田の望んだものである。

弁天荘から見える郷ノ浦大橋

弁天崎の郷ノ浦港側の市杵島(いちきしま)神社は海の方から入ってくるように、鳥居が海沿いに建てられている。珍しいそうだ。弁天荘の敷地内にも弁天様を祭っている。