①三富朽葉の詩碑

●場所 郷ノ浦町片原触1697(郷ノ浦港から郷ノ浦大橋を渡って、弁天崎公園内へ。郷ノ浦港側。)

●建立年月日 1967年8月2日

●建立者 三富朽葉顕彰会

又新しく爽やかな

憂愁(うれい)の祭礼(まつり)

昨日は悲しみ、明日は死に

色も香ひも悩ましく

 雨に塗(まみ)れて

花と咲く 魂の花

 今日のわれ

       朽 葉     


碑の裏面 朽葉三富義臣は早大英文科を卒業フランス象徴派の詩人として詩壇に活躍中偶々大正六年八月二日同学の親友今井白楊と犬吠埼君ヶ浜に於て遊泳中不幸巨浪に巻かれて二十九歳の生命をおとした本年その五十回忌に当り全国同志の浄財を得て此の生誕の地に詩碑を建て長くその偉業を顕彰する

  昭和四十二年八月二日   三富朽葉顕彰会 

  詩は「雨の詩」の第三節。前の2節と最後の節。

緑の苔も白みゆく

  此の麗しい雨の時

  わが指は火の如く

  此上ないを胸に描く

  

雨の抛(なげう)つ(こく)の唄

  生命の苑の蠱 の夢

  わが渇く唇は

  黄金の春を喉に摘む

  なお降り注ぐ浄らかさ 此の生の時―

  豊かさ 優しさ 麗しさ 此の雨の時―  「『僕はこんなにまで雨の喜びを感じたのは、此処へ来てからが初めてだ。』(小涌谷にて増田篤夫宛書簡)と感想をもらしているが、ふりそそぐ雨に魂の歓喜を感じ、『豊かさ 優しさ 麗しさ』に満ちた清新な青春の情緒を心ゆくまで味わい尽さんとした詩である。『消し難い愛の哀しみ、習慣の嫌悪、次いで来る生の倦怠―之等を純一にした刹那主義の実現実成こそ悠久に健全な詩を語るもの』という彼の信念を裏づけする作品ともみられるのではないか。」(三富朽葉全集)

 弁天崎公園の郷ノ浦港側の海岸に建っている。三富朽葉の生家である、石田郡長公舎跡横の、元壱岐合同支庁舎構内(元教育事務所の前)に50回忌を期して、柳田の山川鳴風の世話人で建てられたが、支庁改築のために1969年5月三富本家のある渡良が遠望されるこの地に移された。碑面は風化し文字もほとんど読みとれない。公園に来た人もこの碑が何であるかわからないようだ。

碑は勝本町亀石の山中にあった玄武岩、台石は初山の海岸にあった、重さ3トンの玻璃流紋石。石工は植村。彫刻などは中原組。碑の裏の撰文の作者は山川鳴風。筆者は詩人萩原密平。除幕式など当時のようすが顕彰会の出版した「みだれ藻集」にある。  

朽葉は本名義臣(1889年8月14日~1917年8月2日)。口語自由詩最初の詩人の一人。中原中也(詩人)の本棚に朽葉の本があり、影響を受けたようだ。武生水村40番戸の郡長公舎(壱岐署前)に生まれる。

父は道臣、母はマツで、父は23歳で東京与論新誌を発刊し鋭い筆剣と論旨は有名。31歳で石田郡長など務め、本土と壱岐間の定期航路開設準備、電話架設、群立病院の設置など発展に努めた。東京雪州会の初代会長。「壱岐石田郡村要覧」記す。 朽葉が7歳の時、渡良村1162番地(国津神社をみて左へ行く道に長い塀が残る)の伯父三富浄の養子となる。その後東京に移住1876年4月、13歳で富士見小学校卒(武生水小卒業説あり)、暁星中学校入学(ここでフランス流教育を受け、文学の道へ)。1907年に卒業。この頃から短歌、詩を発表。同年に早稲田大学入学。同年11月白石武志、増田篤夫、西条八十と雑誌「深夜」を発行。在学中はフランス近代詩人の作に傾倒、象徴派に親しむ。1914年養父の三富浄が病死。三富家の当主となる。1916年(28歳)論文「ポオル・ウエルレエス」を発表、その他多くの論文、詩を発表。作品は“雨の唄“”冬の唄“など。

「彼の詩は線が細く、含みが豊かで、気品高く光り輝いて、すべてのものをあたたかく抱いて恍惚たらしめ、底の底まで浸透せしめたものである。」人見東明(詩人・朽葉らと自由詩社を結ぶ・昭和女子大学創設)。杉本邦子元教授は三富全集の監修者の一人。

1917年8月2日、千葉県の犬吠埼の別荘がある君ヶ浜で遊泳中に、親友の詩人である今井白楊とともに水死した。29歳であった。父道臣により君ヶ浜に「涙痕の碑」が建立された。葬儀の際「潮はやき・・・」と書かれた袱紗がお礼の品物。主なき三富家を守っていたのは太田秀嶺氏。

親交のあった秋田雨雀は、「三富君は雑誌『深夜』を発行し、センチメンタルな短歌を発表した。仏語に堪能で非常にきれいな文章を書いた。初号には不思議にも海の歌ばかりで、『潮はやき海の底にもかくれ入り君のがれんと泣けば泣かれて』などいうのがあるから妙な気がする」と書いている。 19歳の時の詩で海で死ぬことを予知していたかのような詩である。中学時代の短歌に海のことばかりを詠んでいる。

大いなる海に立つ日は君逃れしばし安けきわれにかへりぬ

ゆたゆたと青潮のぼる蟹が宿葦根ささ床藻の香もそいて

白鳥が遠潮かすめ過ぐる日や涙ながれぬ人を想いて

犀月来る夜の潮は灯台とまたたきあいて大海占めぬ

朽葉の短歌が中学入学の年、雑誌「新小説」に佐々木信綱選で当選している。

松原のくらきをぬけて又二人磯にかげふむ面白の月

「文庫」より

  谷の家晴れては遠き雲のみを見ている空に虹たち初めぬ

  かなめ垣もののさびしき息に似てうすき灯るる新しき家

  いま夏の緑の中に我さめて生の日に見し静けさよ来る

「みだれ藻集」の中には除幕式の様子やサトウ・ハチロー、西条八十などの献文や文芸大会の入選作などが掲載されている。                                           西城八十は「朽葉こそ日本人で、原語フランスの象徴詩を味わい、その直接の影響のもとに詩作した最初の詩人であった。かれ以前文壇で象徴派呼ばわりされた詩人は有明でも泡鳴でもみんな英訳でボオドレエルや エルレエヌを読むか、あるいは上田敏あたりの訳詩や紹介評論によって、頭の中で勝手な象徴主義を築き上げ、それを信奉した人々であった。朽葉はその水を率先して源泉に及んだ。」と書いている。

彼が19歳のときに、少年時代を回想し、「思う、少年の心に刻まれた事物は年を経る毎になんとも言いがたい仄かな哀愁を與えるものである。僕は幼い時、ひ弱い性で、他の子供のように野山を駈けまわるということもなく、自分のうちの、築山をとりまいた池の水の冷たかったことや、前の郡役所の裏手に小高い丘があって、雑草が丈ぐらいに亂(みだ)れている中で苺の実を葎(むぐら)に沢山通したり、その続きにきいろい菜の花の香が心持よく匂っていたことや、うちの黒塀に添って細い路が限りなく続いていたことや、・・・その行っても行っても先のないような路を急いで行く人を見ると妙に胸が一ぱいになって涙ぐまれた。」と書いている。

壱岐名物の祇園山笠でにぎわう佐賀里(さがり)の坂道を上り詰めたところに郡役所があり、その筋向かいの二棟の瓦葺きの家が壱岐石田郡長公舎、朽葉の生家であった。公舎の庭はかなり広い裏庭があり、そこが遊び場であった。現在は、印刷所は向かい側にうつり、合同庁舎から壱岐振興局になっている。

この公舎は道臣一家上京後、壱岐印刷界の始祖で、壱岐最初の新聞「壱岐新報」を発行していた勝本町出身の岩永恒太が借り受けて印刷業を営む一方で、明治39年3月「壱岐一六日報」を発行している。この印刷所が印刷業界の老舗鴻文社の全身とされる。 なお、早稲田大学英文科の同窓の九州出身の三人は君ヶ浜で亡くなり、今井白楊は鹿児島県川内市に詩碑、吉田絃二郎は対馬に文芸碑がある。

〈碑にまつわる場所〉 歌碑が移転した弁天崎公園は、毎年5月頃、藤の花が滝のように咲き多くの島民が訪れている。公演の周囲をウオーキングしたり子ども達の遊び場もあり、休日は親子連れが多い。海に面しており夕日が美しい。

朽葉にとって海は一生縁が深かった。本家の渡良の祖父母の家に頻繁に訪問しているが、その時に宇土湾や郷ノ浦港に親しむ。 渡良西触に小水浜海水浴場がある。少し離れたところに加志神社があり、下の岩場に大瀬灯台がある。干潮のときは、灯台まで行くことができるそうだ。磯開きが始まるとウニなどを採りに来ている。朽葉はここにも来たのだろうか。朽葉が、明治41年の夏、帰郷中の壱岐から、神戸の増田篤夫に書き送った手紙のなかに、『・・然し泳いでいると実に恐ろしいぞ。ぞっとする。下が真青だ。そういうとき、浮いている藻でも、手や足に触れると、夢中で逃げ出す、もがいて。・・』という一節がある。

郷ノ浦港

弁天崎公園のみごとな藤

国津神社は三富浄が宮司をしていた。旧渡良村の村社。十七社。渡良村の氏神様。811年、日輪の神勅を承り創建。神功皇后が三韓征伐のとき鹿の辻に神殿を造り、その後現在地に遷された。この近くを航行する船は帆を下げ敬意を表して通ったといわれている。

長い塀が三富浄の屋敷跡で奥は国津神社