㉒篠崎豊貫の句碑

●場所 芦辺町芦辺浦41(芦辺港から湾内に添って走り、芦辺浦へ。消防倉庫を右折。十字路を右折、住宅地内を行き、つきあたり。天徳寺の隣)

●建立年月日 1964年

●建立者    篠崎豊貫

杖眼鏡

まだまだいらぬ 米寿の日

篠崎豊貫(ほうかん)は本名篠﨑与八郎。芦辺浦の商店に住む。

芦辺浦の住吉神社の境内に、生前米寿を記念して、句碑を自ら建立する。

壱岐川柳会の初期に属していた。「小柄で和服姿の、いつもバッグを提げて歩かれていたのが強く印象に残る」と同会の益川ゆたかが書いている。豊貫自らも

空の旅和服姿は僕ひとり

と句にしている。縁故にあたる人は、豊貫が、笑い袋(笑い声が出る袋)を持ち歩き、ふらっと家に入って来て、それを握って笑い声を出し、自らも笑っていたと話す。ユニークな人だったのですかね。

1952年同会の松原一楼氏の長男の誕生を祝う句会での一句。

光徳よ僕の長寿に似てほしい

亡き曽孫忘れんとして夢にみる

1973年98歳で亡くなる。

右隣のもう一つに石碑は1852年に建てられた篠崎家三代の碑。

住吉神社・芦辺浦

1624年長州の豊浦郡(山口県下関市)の社人、篠崎隼人が清滝浜に来て、長府の豊浦宮・住吉神社を遷し自らも住むようになった。この地を豊浦と名付けたとされる。清滝村とよばれていたときは、たくさんの「葦」が生えている葦原だった。 芦辺浦は火事が多く、1636年、1653年、1664年と豊浦民家焼失する。鎮信は芦辺浦という地名にするように命じたが、1670年も火事があり、その後は天然痘が流行した。

 篠崎家の系図には「大宮司四位連藤原兼定(長洲一ノ宮住吉宮社司)、その子大宮司四位連藤原邑定幼名圓五郎貞宗という。実は奥州伊達輝宗之弟也。政宗の伯父なり。名圓五郎貞宗武門を嫌い神道を修行し十八歳より諸国遊歴し豊浦に行き、兼定の家に滞留して、兼定の娘と結婚し三男一女を産む。嫡子は大宮司朝定、次男は宮内正興、三男対馬。正興は嫡子隼人と1624年当所に来て居住す。本国一之宮の住吉宮を勧請して世を渡れり。

伊達家の笹に雀と大崎の埼を合わせて篠崎と改む。

篠崎隼人の子太郎左衛門は住吉神社畑を家族

で耕していたが神職をやめ商人となり豆腐を作って売った。その子の太郎左衛門は酒造業をやり浦の公職もしていた。次の太郎左衛門は仲間5人と鯨組を出したり、椎の木新田の干拓を行った。その弟の 右エ門独立して篠崎一手の鯨組の組主になった。

昭和の時代はこの港から壱岐と博多を結ぶ連絡船が出ていたが、港が浅くはしけで、沖に停泊の船に渡らなければならず、そのため対面している瀬戸浦に新しく港をつくった。

●住吉神社

 表筒男命、中筒男命、天照大神、神功皇后などが祭られている。1648年(江戸時代)、宝殿、拝殿の再建。平戸藩主の国司松浦鎮信の棟札がある。鳥居は寛文十二年卯月造立。狛犬は壱岐の名工、山内利兵衛の作。

●ひのこ坂

1717年の夏、日照りが続き、村民たちは飢餓にひんしていた。雨乞いの祈祷を住吉神社の陰陽師後藤左京と龍蔵寺の日峰和尚に頼んだ。左京は八幡半島の観音岬で祈祷し、雨が降らなかったら、海に身を投げて、人柱になるつもりだった。和尚も火を焚き読経し、雨が降らなければ自分の身を火の中へ投じるつもりだったが、火の中に一歩入った時、雨が降り出した。雨乞いの祈祷の開始の合図の烽火を上げた場所。

●ちんちりがんがん

住吉神社では毎年旧暦の9月7日から9日までの三日間。約300年前から伝わるという行事。お囃子の音から呼ばれている。7日は御幸船8日にちんちりがんがんの行列がある。

芦辺浦の通り

名工山内利兵衛作の狛犬