⑱松尾芭蕉の句碑

●場所 芦辺町瀬戸浦496‐1(芦辺港から瀬戸方面へ。T字路を右折。左手、瀬戸浦の町中。橋を下りたあたりに車を止めて、徒歩で町中に入り左へ)

●建立年月日 1830~1844年

●建立者  布屋丈口、赤木素白

芭蕉翁

名月や門にさしこむ汐かしら  

発起 北筑

    故人

      下条 悟山

  (裏)

願主   布屋丈口

      赤木素白

(芭蕉庵三日月日記 元禄5年)

咬咬たる名月の光のもと、大潮の潮頭が草庵の門のあたりまで満ちて来るというもの。

*元禄5年(1692年)、芭蕉49歳のとき、江戸深川の旧庵近くに三度目の芭蕉庵が新築されている。

句碑は階段を上ったところにつたに絡まれてあった。文字は風化し読みずらい。ここから見る瀬戸浦の青い海と空、の景色は美しい。月夜はさぞ美しかったのではないかと思う。

芭蕉は1644年に三重県伊賀上野赤坂に生まれ、松尾宗房という。13歳で父を亡くし生活は苦しかった。藤堂良忠に奉公し、この人物が

俳句を詠むのがうまく、芭蕉が俳諧の世界に入るきっかけとなった。江戸に行き水道工の事などに従事した。やがて深川の芭蕉庵に移り談林の排風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、芭蕉風を創始。各地を旅し多くの名句と紀行文を残し、大阪の旅舎で1694年に没。俳号の芭蕉は門人の李下から芭蕉の株を贈られ、爾来、芭蕉号を使用するようになったという。芭蕉の没後、芭蕉塚、句碑が各地に建てられた。 「瀬戸小学校(瀬戸幼稚園)跡に芭蕉の句碑がある。この地は江戸時代まで江月山永光寺(曹洞宗)があったところで、境内に建てられている。明治の神仏分離令で廃寺となり、過去帳などは、長徳寺に移されている。当初、山号は江霊山であったが、この寺からながめる月が格別美しかったので江月山と改めたのではないかといわれている。1861年の壱岐名勝図誌に『江月山永光禅寺、旧名江霊山在瀬戸浦、寺地の佳景浦曲の眺望内海目前に湖水なして、月の頃は殊更なり。風景短筆に尽くしがたし。山号よくもかなひたりけり。』とある。

願主の文字より祈願のため建てられたのではないかという。江戸時代の後期になると行商人らにより商品とともに、学芸などももちこまれ、江戸や大阪など都市の文化人も地方に遊歴し地主・豪商と交わったりし、俳句も民衆文芸として広がっていった。瀬戸浦の有産階級が中央に出掛ける機会や中央から句集などを取寄せる機会も度々あったであろう。」 

      川棚町文化協会会長・喜々津健寿

句碑は玄武岩で高さ1.65m幅0.86・高さ0.5

句碑から見える瀬戸浦

階段を上ったところに碑がある

瀬戸浦の町並みで、古い家が残っている。貴船神社があり、通り抜けると海が見える。

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