⑯小川碧洋の歌碑

●場所 勝本町立石南触1070(郷ノ浦港から国道382号線へ。県道174号線に入り、鯨伏小前の道左手前方向へ)       

●建立年月日 1971年4月3日          

●建立者     小川高光

生を得て

再び故郷の

土踏むは

難しと思ひし

ここに幾たび

碧洋

小川碧洋が古稀の記念に菩提寺である観世音寺の庭に建立する。観世音寺境内に建立する。摂津市在住と裏面にある。

「命を授かって、島を出てから、故郷の壱岐に帰ってくることはなかなかできないと思っていたが、何度か帰って来ることが出来た。」

本名は小川髙光(1897~1986)。

戦争が続いて起きる中、物心両面に大きな犠牲が伴い、国民の精神が落ち着くときはなく、なかでも将来家庭の主婦となり母となる女子の教育が最重要であると考え、1931年大阪市東淀川区に、薫英女子学院創立。

開校までに校舎が間に合わず、同地の善久寺の本堂を仮校舎とした。7名の生徒で創立記念式を挙行。当時の記録に、「境内の樹木は新緑にもえ、静まりかえった御堂の大広間が仮校舎としての体裁を整え待っている。奥から薫香の煙が流れてくるのも床しい。午前9時創立記念式が始まった。奇想天外のこの挙式、第一回生として集まったもの実に7名・・・生徒のその顔、その眼、緊張歓喜の絶頂にあるが如き感さえみせ少人数にて負える責任を痛感す」とある。

創立直後も支那事変、大東亜戦争が起こり、学園経営は困難をきわめた。特に戦後の学制改革は、試練の時となった。 

1941年、薫英学園設立。薫英は日本の教育に薫り英でるとの意味で命名した。銀行勤務の経歴があり、主に学校経営に関わっていた。1951年、薫英学園理事長・学園長に就任する。1985年学園長を退任する。 1966年に開学した大阪薫英女子短期大学が大阪人間科学大学(学歌の作詞は谷川俊太郎、作曲谷川賢作))と2013年に統合するために閉学された。「敬・信・愛」の精神で令和3年に90周年を迎えた。(小川道雄理事長)数々の受章表彰あり。妻の小川静枝さんは高校・短期大学教員で日本画家の斎藤宗男氏に師事し多くの作品を残す。高校では短歌の朗詠を行う。

校歌は、作詞は小川で、作曲は、壱岐出身の山口常光。現在、幼稚園、中学、高校、大学の総合学園。高校の陸上競技部は全国駅伝大会で2度優勝している。オリンピック選手も輩出。

 大阪府知事表彰受賞、正五位叙位など受章。

小川は雅号を「碧洋」とし短歌結社「みどり会」発足し、主宰となる。碧洋は壱岐の広々とした海のことを雅号としたのか。1969年5月短歌誌「みどり」創刊。通巻17年104号発行に到る。当時の会員数300余人。短歌は佐々木信綱、金田一京助に師事。 学園には碧洋記念館があり、創立からの資料を展示している。

「みどり」より

九州の孤島に住みしわが祖先の数百年の伝統偲ぶ

学園を創めてここに五十年過ぎ来し道は険しかりけり

日の本の大和心の湧き出づる三十一文字をうたひつがばや

薫英学園の庭に建つ歌碑

薫英学園の校庭に建つ歌碑に詠まれている歌

巣立ち行く子等を送りておもふかな

世の荒波をいかに越えむと

観世音寺

湯ノ本温泉街の高台にある曹洞宗の寺。

1955年の火事の焼失で、仏像もなくなり2年後に再建する。壱岐西国三十三観音霊場16、17と19、20の4つの遙拝所がある。 なお、壱岐高校出場の第97回選抜野球大会の応援に行った折りに、事前に来校をお願いしていたが、卒業式という忙しいなかにも関わらず、立派なメモリアルルームで小川氏と学園について丁寧に説明していただき、また校門まで見送っていただいた。

山口常光は1894年、勝本浦に生まれ、陸軍軍楽少佐からNHK吹奏楽団長を経て、相模女子大学教授、JBA初代会長など歴任。同郷の山口氏が作曲し、作詞を小川がしている。山口氏の胸像が歌碑のある場所の下方の海岸側の道路沿いに建てられている。

薫英学園