⑫河合曾良の句碑

●場所 勝本町坂本触757

●建立年月日  1989年5月22日

●建立者  曾良翁二百八十年忌記念事業実行委員会


行き行きて

たおれ伏すとも萩乃原

        

岩永西峰筆 

元長崎書道会審査員



勝本城公園内に建っている。右横には諏訪から運ばれてきた御柱が立つ。1998年から御柱祭(6年ごと諏訪で行われる)の古御柱が届くようになって2022年で5回目。

碑の句は二人の旅の途中、山中温泉(石川県)で、曾良がお腹を病み、芭蕉に迷惑をかけないようにと、しばらくの別れを決心した時の句。一人になる孤独感と、別れの寂しさ、苦しさが詠まれている。

松尾芭蕉の門弟である河合曾良は江戸中期の俳人。奥の細道で奥州・北陸の旅に同行した。慶応二年(1649)上諏訪に生まれ十歳代から伊勢の国の一隅にある長島に住み、壮年時代は江戸に住み芭蕉の死後も故郷には帰らず、当時六十六部とよばれた行脚僧となり、五十歳代は旅僧の生活をおくっている。

芭蕉を慕い、芭蕉も曾良を評価していた。生まれた時の名前は高野与左衛門という。慶安2年(1649)母の里の河西家にひきとられる。曾良の両親は6歳のとき、この世を去ってしまった。曾良はさらに岩波家(岩波書店の創業者の岩波茂雄も一族)にもらわれている。河西家の先代の娘が岩波家に嫁していたからだ。曾良には姉がいた。弟が二人いたが長男である曾良が継がず弟の五左衛門が継いでいる。「末子相続」という習慣があったとも考えられる。

曾良の死後、姪の婿の河西周徳が追悼の気持ちを込め「雪まるけ」という文集を1976年に刊行している。養父もいなくなり長島にいる曾良の叔父のところへ行く。 1668年頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名のる。1676年「袂から春は出たり松葉銭」の句を詠む。その後吉川神道を学ぶ。

貞享年間に芭蕉に入門し、1689年からの奥の細道に同行。「曾良日記を」残した。徳川家宣の命により1709年巡見使随員となり、3月1日江戸を立ち、5月6日、呼子より郷ノ浦港に上陸し一泊、翌日勝本で別れ、海産物問屋の中藤家に逗留し同月22日没した。

享年62歳。勝本町の能万寺境内にある中藤家の墓地には曾良の墓がある。戒名は賢翁宗臣居士。

「 壱岐の人は行き行きて倒れ伏すとも萩の原の『行き行き』と言う発音が『壱岐壱岐』と感じとれるという。終焉の地が芭蕉とちがって、山と海という対照的な風土であったが故に、曾良の死後のイメージはこれからもふくらんでゆくにちがいない。」「旅人・曾良と芭蕉」岡田喜秋より

また、本市の高校を卒業後、上京し俳句結社の「古志」に入会している園田靖彦の句集「曾良の島」より

序句 

曾良いまも夏野をいそぐ笠一つ

長谷川櫂 

曾良目覚めよ 島の誉の春一番

曾良ここに眠れる 島に囀れり

はるかなる独り旅路の果てにして 壱岐の夜寒に曾良は死にけり


斎藤茂吉


碑の付近の見どころ 

〈聖母宮 〉  

 神功皇后を祭る。勝本の総鎮守。奈良時代の初めに創建されたそうだ。地名も皇后が「風本(かざもと)」と付けたことに由来されたといわれている。門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が寄進したものといわれている。境内の牛の石像は志原村の名工山内利兵衛が制作寄進。

〈勝本城跡〉

 勝本港をみおろす標高78メートルの丘陵にある中世山城で風本城(かざもと)城や武末城とも呼ばれていた。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、朝鮮に向かう海上拠点として壱岐・対馬にそれぞれ築城した。平戸藩主・松浦鎮信が島原、大村、五島の支援をえておよそ4か月で1591年に完成させた。