㉚橋本春夫の歌碑

●場所 石田町筒東触1916‐7(石田港から筒城浜方面へ。右手の売店側駐車場)

●建立年月日 1975年1月

●建立者    大蔵・江田らの教え子

大巌と

      小岩とにいて

父と子は

  とひかわし

        つゝ

   つり

    たりし

     かな

隣の石台には

   歌碑の由来

橋本春夫先生は此の浜続きの家に生誕、壱岐中学校二期生である。当時大塚悦三先生の導きによって歌心を発芽 進んで広島高等師範では下村千別先生について精進された。□後先生は三十余年間教育者として献身されたが昭和23年宗教法人PL教団教師となり□祖の位に上られ“短歌芸術”同人として入っては御木徳近教主の芸術論に傾倒し出でては歌人窪田空穂先生の知遇を得て歌境悠々伸長□□昭和四十六年には歌集“白壁”を上梓された。先生の作品は先生の醇良円満な人格が滲み出て極めて香り高いものである。

我ら先生を推奨する心措く能わず有志相図り其の歌風を此の地に留めんことを冀い茲に先生の歌碑を建立するものである。

     昭和五十年一月

                      有志一同

橋本春夫は石田町に生まれ、壱岐中学を卒業し、「耕人」「玄海詩人」などの文芸雑誌で山口麻太郎や目良亀久らとともに活躍した。広島高等師範学校国語漢文科で、歌は下村千別(「はるよこい」の作詞者)に学び、のちに湯浅竜起につく。窪田空穂の門下。旧制壱岐中学の教師をする。そこでの教え子などが歌碑を建立する。PL教団の高校?教師となる。大阪府の富田林市に住み、そこで亡くなっている。 島を離れ遠くに暮らすことになっても故郷のことや両親などのことを想って、この歌を詠んだ。ただ単に、大岩と小岩で親子が釣りをしているのではない、そこには寂しさや、懐かしさが込められているのである。

春夫の弟の娘であり、筒城小学校の前に住んでいる広瀬房子さんによると、春夫の子どもは三人の女の子がおり、妻は岡山の人。墓参に帰ることもあった。今の筒城小学校の運動場や付近の土地も橋本家のものであった。春夫の父方の母親も俳句を詠み、特攻で亡くなった息子のことを詠み、教科書に載った。墓にも句を刻んでいる。

歌集「白壁」より

七十路の母と八十路の父訪うと五年(いつとせ)ぶりに見やるわが里

筍のよく生え出でし裏山を見すると老父は先に出でたたす

我に賜ぶと小さき蜜柑をむきたまう老母の手の皺にまなこそむけつ

  

我を待ち待ち拾い得て言に出でず吾も言触れず かくて今日暮れぬ

遠天のま白浮き雲見てあれば今日のかなしき現身(うつしみ)もなし

  

染めつくす公孫樹がこぼす陽をうけて石の階段(きざはし)母と子があり  この歌は、当時70代の母と80代の父を、5年ぶりに帰省したという春夫が胸いっぱいの思いで見守る。親子の思いを歌にした。

〈付近の見どころ〉

●筒城浜

筒城海岸は壱岐対馬国定公園の一部で、筒城浜から錦浜までを筒城浜と呼んでいるが、以前は七浜といい、それぞれに名前がつけられていた。白砂清松の美しい浜である。

●白沙神社(筒城仲触)

白沙八幡神社は三韓遠征にゆかりのある応神天皇、仲哀天皇など七座を祭神とする。壱岐でも有数の格式をもった神社として参拝者も多い。社叢ではシイ、イヌマキ、イチョウの老大木が生育している。

江戸時代に平戸藩主第29代松浦鎮信公が奉納した、三十六歌仙画がある。平安時代の歌学者藤原公任の「三十六人撰」に名をあげられた歌人のことをさす。柿本人麻呂、小野小町らがそれにあたる。歌は鎮信公直筆で、画は片山尚景(狩野尚信の高弟)。鎮信公は壱岐には1664年に入り、島内の干拓事業を奨励、橘三喜に延喜式式内社の調査を行わせた。印通寺の景勝を詠んだ歌「妻子島誰れを松崎君ヶ浦七夕ならで川はへだてし」。